院長ストーリー
1962年5月22日に、今はありませんが、港区の赤羽橋にあった専売公社東京病院でDr.シンは産声をあげました。3200グラムでありました。
父(現代表)母(事務長)3つ上の姉の4人家族で、とちよっとハニカミの少年は、田端新町という下町ですくすくと育ちました。
地元の幼稚園に入園し、 将来何になりたいか?というインタビューに、既に「歯医者になる」という事を言っていました。私本人もいまだに言った事は覚えている位歯医者になる事は、私の「夢」でありました。
小学校も地元の小学校に入学するも、3年の時、田端の高台に移り住み転校いたしました。
小学校時代は、足が速かったせいか、それだけでクラスのリーダー的な人気者でした。
授業中いつもおしゃべりで注意され、廊下に立たされたり先生に叱られてばっかりでした。
ということで、勉強の方は。。。
しかしながら、5年生から今でいう「お受験」をすることになり、塾・家庭教師・勉強合宿とそこまで勉強するかいという位、勉強に時間をとられましたが、頭に入っているかというと。。。
案の定、中学受験に失敗してしまい、地元の区立の中学校に進学しました。
Dr.シンの最初の挫折でした。
中学校に入り、初めて学級委員を務め出足は上々でしたが、小学校時代のように足が速いだけでは、通用せずだんだんと目立たない存在になってきました。
入部したバスケット部もすぐに辞めてしまい、ぱっとしない中学生活でした。
高校に進学し、中途半端だったクラブ活動(バスケット部)も、3年間まっとうし、高校を(トップクラス?)で卒業する事が出来ました。
大学受験、見事!日本歯科大学に現役合格。
入学してびっくりした事は、歯科大生は喫茶店をはしごする事と、体操着に何万円もするブランド物のポロシャツを着るということでした。
しかも、Dr.シンは一番派手な硬式庭球部(テニス部)に入っていました。
歯科大の部活はすべて体育会系で、一見ブルジョアに見えるテニス部も血反吐を吐くくらいきつかったです。
勉強の方はというと。。。
とにかく歯科大時代は、テニスクラブとお小遣いのやり繰りと進級テストにパスすることで精一杯でした。
ちなみに、実習が増えてくると宿題に追われて、テニス部もありアルバイトをやれる時間は当時のDr.シンにはありませんでした。
しかも、4年生でテニス部(総勢40名)をまとめるキャプテンになってしまいました。
最高学年6年生の時です。
入学当時いた160名の仲間が、毎年2,3人づつ留年や歯科大を辞めて行って、10人くらいいなくなっていました。
そして、卒業試験(学士)です。
人生の中で一番勉強した時でした。
無事学士合格。
しかし、150人のうち20人くらいはパス出来ませんでした。
何故かというと、最後の仕上げ歯科医師国家試験にパスしなければならないからです!
卒業試験で本当の勉強の仕方が分かり、当時ワンレンボディコンが流行った時代で、Dr.シンも長髪でワンレングスにしていました!
自慢の長髪をなんと丸坊主にして、歯科医師国家試験に挑みました。
一日約10時間以上の勉強が功を奏したのでしょうか
見事!その年の歯科医師国家試験に合格!
これで、幼稚園以前から夢をいだいていた「歯医者になる」ことが現実となったのです!
始めて社会人として、勤めた所は学生時代月に一度見学に行っていた所で、1日に150人位患者さんが来院する歯科医院でした。
卒業したての私には到底ついていけず、半年位で辞めることになってしまいました。辞めさせられてといった方が正しいかもしれません。
人生2度目の挫折を味わいました。
次に勤めた所は、自分のユニット(診療台)を2台頂き、そこでじっくりと診療するスタイルの歯科医院でした。
Dr.シンの他に、ドクターが3名、衛生士・アシスタント・受付・技工士総勢20名以上の大きな診療所でした。
そこで、Dr.シンは運命的な出会いをしました。
妻との出会いです。
当時彼女は、そこで主任衛生士をしていました。
彼女の笑顔は、Dr.シンのみならずスタッフや患者さんにも絶大な信頼を得ていました。
3年越しの付き合いで、平成2年11月18日に都内のホテルで結婚いたしました。
それと同時に、平成元年5月に今の診療所でリニューアルオープンして、父親と親子診療を始めました。
代表が築き上げた30年間は、既に信頼を得ていたため患者さんは大勢来院して頂きました。
平成3年には、最初の娘、平成6年には、二番目の娘も授かり、仕事も家庭も順風満帆の30代を過ごせました。
つづく
富士歯科医院・院長 進 健修
